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さくらんぼ
2008.05.27 (16:56) 日々のたわごと
08-5-26.jpg

桜がもう実を付けました。
ついこの間、散ったばかりなのに。
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みかんの花の香り
2008.05.23 (22:52) 日々のたわごと
今この辺りでは、みかんや橙の花が満開です。
山の斜面には果樹畑がたくさんありますので、
今日のように晴れた日には、街中がよい香りに包まれます。
青い空、キラキラ光る新緑の山、薫る風・・・
ちょっと大袈裟な言い方になりますが、まるで天国のよう。

住人たちは皆、それぞれに大なり小なり悩みを抱えていますが、
それでも今、この街は平和です。
何もない平凡な一日の、なんとかけがえのないことでしょう。

こんな気持ちになるのは、みかんの花の香りのせいなのかもしれません。

アロマテラピーで使われるオレンジの精油には、
心を前向きに明るくする効果があるそうです。
水とぶどう酒-----その3
2008.05.16 (15:01) 思いつれづれ
こんなコラムを書いている間にも、
世界中で悲惨な出来事が次々に起こっています。
どんな言葉も虚しく感じられ、筆が進まなくなってしまいました。

「・・・」

たとえ祈ることしかできなくても、
それが無意味なことだとは思いたくありません。

どんなにささやかでも、ぶどう酒を注ぎたい。
そう思い続ける個でいたい。

いつも、いろいろ考えて、迷っても、
結局はそこに回帰するのです。
水とぶどう酒-----その2
2008.05.10 (17:41) 思いつれづれ
このおとぎ話は、逆説的なヒントだと思いますが、
小さな個の、役割の大きさを教えてくれます。

ぶどう酒であろうと水であろうと、
たった一人で樽を満たすことはできません。
だとすれば、自分の小ささや非力さを嘆く事自体、意味のないこと。

自分ができることの小ささを嘆く事は、
自分ぐらいなら分からないだろうと
樽に水を注いでしまうことと表裏一体なのですね。

今、私たちを取り巻く現実は、
かなり水で薄まってしまったぶどう酒なのではないかと思います。
一人一人が、大して罪の意識もなく、
ちょっとずつ水を注ぎ続けてきた結果です。

この現実をかえるために個人ができることは、たとえ僅かでも
ぶどう酒を注ぎ入れる努力をし続けること以外にありません。

もちろん、実際には、ただ生きているというだけで、
何かを奪い、汚してしまうわけですから、
おとぎ話のように単純ではありませんね。

でもだからこそ、“少しでも”という気持ちが大切なのだと思います。
その行いは誰にも評価されず、
”焼け石に水(ぶどう酒)”のように感じられるかもしれません。
けれども、それが失われたら、
樽はいつまでたってもぶどう酒で満たされることはないのです。


・・・またまた、つづく
水とぶどう酒-----その1
2008.05.07 (23:35) 思いつれづれ
自分という存在の小ささや非力さを嘆きたくなる時、
いつもの脳裏に浮かぶ おとぎ話があります。

子どもの頃に出会ったお話で、詳しいことは忘れてしまったのですが、
大筋だけはずーっと覚えていました。

後で調べて分かったのことなのですが、
それは『ぶどう酒が水になった話』というフランスの民話です。



『ぶどう酒が水になった話』

フランスのある村に、100歳を迎えたおじいさんがいました。
村人たちはみんなで相談して、長寿のお祝いに
おじいさんの大好きなぶどう酒を一樽贈ろうということになりました。
どこの家も貧しかったので、
みんなで少しずつぶどう酒を持ち寄ることにしました。
村の広場に大きな樽を置き、
村人たちは順番に持ち寄ったぶどう酒を注ぎ入れました。

一杯になった樽を、みんなで担いでおじいさんの家に持っていきました。
その樽を見て、おじいさんは涙を流して喜びました。
貧しい村人たちの気持ちに感謝で一杯でした。

おじいさんその晩、樽を開けてぶどう酒を飲んでみると・・・・
なんとぶどう酒は、すっかり水に変わってしまっていました。





何故ぶどう酒が水になってしまったのでしょう?
『自分ひとりだけなら、ぶどう酒のかわりに水を入れてもわからないだろう…』
と、すべての村人が考えた結果、
樽はぶどう酒ではなく、水で満たされたのです。

なんて恐いお話でしょう。
このお話のキーワードは『自分ひとりだけなら』です。
全ての人が 『自分ひとりだけなら』と思うと、ぶどう酒も水に化けてしまうのです。

・・・・つづく
暗澹たる気持ち
2008.05.03 (20:30) 思いつれづれ
先月、私は暗澹たる気持ちで過ごしていました。

“食品の裏側”という本を読んで、“不都合な真実”というDVDを見たら、
なんだかもうダメなんじゃないかと思ってしまったのです。

その頃、たまたま環境問題をテーマにしたテレビの特番が重なって、
余計に気持ちが沈みました。

もちろん、いずれも初めて触れる情報ではありませんが、
より具体的なデータを提示されて、いかに深刻な状況であるかを再認識したのです。

“食品の裏側”の著者である安部 司さんも、
“不都合な真実”を制作したアル・ゴアさんも、
人々を絶望させるために情報発信しているわけではないのですから、
『ダメなんじゃないか』なんて思ってしまう事自体がダメなんですが、
誰もが一瞬はそう思ってしまうのではないかと思える程に、シビアな内容でした。

しかも、これらに示されている“食の危機”、“温暖化の危機”以外にも、
問題は山積みです・・・

アラームは鳴り続けています。
しかも、手遅れなのではないかと思えるようなレベルです。

「いったいどうすれば? 」

“不都合な真実”というDVDの中にも、
講演を聴いたある女性が、アル・ゴアさんに、
「私たちはどうすればいいのでしょうか」と問いかけるシーンがありました。

自分にいったい何ができるのか、誰もが皆そう考えるでしょう。
私も考えました。
そしてどんなに考えても、できることは身近な、とてもささやかなことばかりで、
それが、いったいどれほどの足しになるのだろうかと気が遠くなってしまうのです。

けれども私はかつて、自分なりの一つの答えにたどりついていて、
結局、またそこに回帰しました。

そうしてやっと、『ダメなんじゃないか』という気持ちを捨て去ることができたのです。

それは・・・つづく。
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